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随筆 第五回 「 丹波国今昔 」


A. 丹波国の由来

 @ 丹波は、地形から呼ばれた国名で、その発生地は京都府中郡峰山町丹波とされている。その由来については、谷間(たにま)、谷庭(たにわ)、谷端(たにはた)などの諸説があるが、峰山町丹波の地形に合致するのは「谷端」。
 A 古くは旦波、田庭とも記された丹波国には丹波国造(たにはのくにのみやつこ)が配され、奈良時代・和銅六年(713)、一部を割いて丹後国を分立した。
 B 「丹後があって丹前がない」丹波国のうち、丹波郡ほか四郡を割いて丹波後国(たにはのみちのしり)【後の丹後国】をたてた。国造は丹波国造が兼務。国府・国分寺とも宮津市にあったらしい。
 C 丹後の国名は、丹波後国に由来するが、丹波の国名のもとになった丹波郷は、丹後国のほうに存在する。
 D 一国を二分、三分し、都との距離によって越前・越中・越後(上総・下総)などとするが、≪丹後≫に対して、≪丹前≫としなかった理由は定かではない。



B. 古代の丹波国

@ 現在の京都府中部と兵庫県北東部を占める山国である。ほとんどが山地で、その隙間にいくつかの盆地があるという地形だが、既に縄文時代から人が住んでおり、弥生時代以降は多くの古墳が造られた。
A 古代の国制では、国の中はいくつかの郡にわかれるが、どの郡に「国府」があるか、あるいは「一の宮」があるか、で中心地が決まる。もちろん、国分寺(国分尼寺)もそうだが、国分寺は奈良時代に聖武天皇の命令によって創建されたから、それまでに存在した国府と同じ郡にあるケースが多い。
B 一方、一の宮は大和朝廷の権力が及ぶ以前から、存在する神社であることが少なくないので、国府とは違う郡に所属することがある。
C この点、丹波国はこの三つの要素(一の宮・国府・国分寺)がすべて同じ桑田郡にある。

C. 丹波国の神社・仏閣

@ 丹波国一の宮は、「出雲大神宮」で、出雲国の出雲大社から勧請したものといわれている。日本の古代には、ヤマト系王朝へのイズモ系王朝からの国譲りの神話あるが、この地は大和朝廷に長い間反抗していたのかもしれない。
A そこでヤマト系の神として勧請されたのが、同じ桑田郡にある「篠村八幡宮」です。八幡宮といえば祭神は応神天皇ということになるが、まさにその応神天皇陵と伝えられる大古墳(大阪府羽曳野市)にある誉田八幡宮から、分霊されている。篠村八幡宮は、鎌倉時代の終わりに打倒幕府、打倒北条氏の烽火を上げた足利尊氏が先勝祈願した神社としても有名で、そのときに尊氏が奉った願文が今も保存されているとか。
B 八幡神はまた武神でもあることから武士階級の信仰も集め、朝廷勢力と武士に共通する信仰対象となった。初めて武士の政権を開いた源頼朝が、幕府を置いた鎌倉の地に鶴岡八幡宮をひらいたのもそのためである。ちなみに鶴岡の分霊は、京都の石清水八幡宮から勧請されたものである。もともと八幡神は一体であり、どこから勧請しようと同じことなのだが、「宇佐八幡宮」まで遡れる。
C 「穴太寺」は、西国三十三所の第21番札所。菩提山穴太寺(ぼだいさん あなおうじ)、本尊・聖観世音、真言「おん、あろりきゃ、そわか」。ご詠歌「かかる世に 生まれあう身のあな憂やと 思はでたのめ十声一声」。西国巡礼は、西国三十三所観世音霊場に設けられた三十三の寺院を巡拝すること。ちなみに、西国巡礼は、花山法皇が開山された。(三田市尼寺・東光山花山院は、別格。)
D 足利尊氏が天下を取って室町幕府を開いた後に、戦いで亡くなった人々の霊を伴うために関係各国に安国寺を建てたが、「丹波安国寺」のある地(綾部市)は、尊氏の母の実家(上杉家)のあったところ。

D. 明智光秀

@ 戦国時代、丹波攻略司令官として、波多野氏の八上城を攻め落とし、丹波一国を平定。
A 昔の丹波国の国府に近い亀山に居城・「丹波亀山城」(亀岡市)を築く。
B 光秀は、善政を敷いたという言い伝えがある。
C 福知山市には、光秀を神として祀った御霊神社がある。この例大祭は当時から一の宮である出雲大神宮をしのぐものとなっている。
D 「本能寺の変」の原因については、様々な説がある。
・丹波八上城攻略にまつわる恨み説。
・領国取り上げの説。(近江・丹波を取り上げ、出雲・石見を与える。)
・面前でのイジメ説。(武田攻略時。安土でのコ川接待時。金柑頭の打擲説。)
・四国遠征軍の出発阻止説。(長宗我部家の外交窓口。)
・ノイローゼによる発作的犯行説。
・生存説もあり、コ川家康のブレーンの「天海」となった。明智家も天海も家紋は、共に「桔梗紋」。延暦寺・四天王寺の復興。日光山の整備。東叡山寛永寺の創建。

E. 江戸期の「石門心学

@ 丹波国桑田郡東懸(とうげ)村(亀岡市)出身の石田梅岩(1685〜1744)を祖とする石門心学が始まる。梅岩は、京都に講席を開き(車屋町通御池上ル)、商人の役割を肯定するなど、庶民を教化。
A 江戸時代、神・儒・仏の三教を融合して、その教旨を平易な言葉と通俗なたとえなどで説いた一種の庶民教育。「商人もまた人間である。」商業がもつ社会的機能を重くみて利潤追求の正当性を認め、商人の社会的地位の向上を図った。
B 心学布教の方法は、三通り。
「道話」(庶民の耳に入りやすいように日常の譬えなどを交えながらの平易な説諭で、その時代の倫理をといたもの。)
「静座」(禅の修行に倣い、静かに坐して、言語・文字の世界を超越して直覚的に「本性」の開を目指すもの。)
「会輔」(師匠が日常倫理にかかわる問題を設定し、会友が討議しながら人間としてあるべき道を求めようとするもの。現在でいうゼミ学習!!)
C 江戸期の最盛期には、一時65か国、149の講舎を所有していた。

F. 大本教

@ 神道系宗教の一派。正式には大本。本部を丹波国(京都府亀岡と綾部)に置き、開祖出口ナオの筆先(ふでさき)と聖師出口王仁三郎の「霊界物語」を中心とし、世の立替え立直しと「みろくの世」の実現を唱える。
A 1892年(明治25)に起こり、1935年(昭和10)当局の弾圧を受けて解散。46年愛善苑(あいぜんえん)として再発足し、52年大本と改称。

G. その他

@ 風土記・・・和銅六年(713)元明天皇の詔によって、諸国に命じて郡郷の名の由来、地形、産物、伝説などを記して撰進させた地誌。完本として伝わるものは出雲風土記のみ。常陸・播磨の風土記は一部が欠け、豊後・肥前のものはかなり省略されていて、撰進された時期も一律ではない。地名については、吉字の二文字表記を指示している。(例えば、小丹生⇒遠敷。谷端⇒丹波。谷間⇒但馬。山背⇒山城。)
A 延喜式・・・五十巻。平安初期の国家の法制書。醍醐天皇の延喜五年(927)、左大臣藤原忠平・大納言藤原清貫らが奏進、康保四年(967)施行。
B 式内社・・・延喜式の神名帳に記載されている神社。式社。⇔式外(しきげ)。
C 和妙抄・・・『倭名類聚抄』二十巻。源順(したごう)編。天部・地部・水部などに漢語を32部249門に類聚・掲出し、音・意義を漢文で注し、万葉仮名で和訓を加え、文字の出所を考証・注釈している。承平(931〜938)年中、醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって撰進。画期的な百科事典的漢和字典。
D 和漢三才図会・・・江戸時代の図入り百科事典。寺島良安著。105巻81冊。明の王斤(おうき)の『三才図会』にならって、和漢古今にわたる事物を天文・人倫・土地・山水・本草など天・人・地の3部に分け、図・漢名・和名などを挙げて漢文で解説。正徳二年(1712)か三年頃に完成。


石山テクノ建設株式会社 顧問 坂本良高

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