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明治政府が廃仏毀釈を進める前にいち早くその取り組みを行ったのは、王政復古の運動の中心にいた津和野藩、長州藩、薩摩藩などである。
島津家藩主島津久光は菩提寺五箇所を全て神社にしている。今もその五社は春日神社、若宮神社、稲荷神社、諏訪神社、八坂神社というありきたりな名称で残っている。
そのなかで稲荷神社は社殿が失われ、八坂神社は鉄筋コンクリート造で建て直され、三社は木造で残っている。いずれもお参りする人の気配はうすい。
建物の様式も神社の定石から外れ、色彩も朱色でなく、赤く塗装されたものもあった。鳥居の形もばらばらで意図が読めない。神社の境内に植えられている樹木は、
楠等の常緑樹と定番の榊が多かったが、榊を定石に従っての本殿の左右に植えるなどの配慮は見られなかった。王政復古の象徴ともいえるオガタマの樹もなかった。
神社を支える力がなかったか、その気がなかったことが現在の境内の様子から想像できる。 鹿児島市の南部谷山地区の小高い丘の上に谷山神社がある。後醍醐天皇の第9子懐良親王(かねなかしんのう)が1341年に北朝側の島津を攻める際に、 地元の豪族谷山五郎を頼って谷山城に入り、島津を攻めたが失敗に終わった。その親王を祀ったのが谷山神社である。谷山五郎を祀った末社もある。昭和3年の創建なのでかなり遅い。 遅い原因は島津を攻めたからなのかどうかはわからない。ここは眺望が良く櫻島が良く見える。鎮守の森に覆われ、境内の手入れも行き届き雰囲気のある神社である。 地元の人に支えられていることが、お参りされる人の多さに感じられる。本殿は八幡造りである。鳥居も社殿と様式を合わせ八幡鳥居である、本来あるべき楔がないのはコンクリート造なので施工上の問題であろう。 植栽は榊の大木が数多く、梅の木も多い。神社らしい樹種構成である。本殿の左右には榊が植えられている。左側の榊の後方にオガタマが植えられていた。皇統につながることの意味を伝えている。島津家の神社と対照的である。 小林一彦建築設計事務所 小林一彦
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