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京都は戦災を免れたことで、江戸時代の様式の町家が数多く残っている。 京の七口というように、京都には各地からの街道が入り込んでいた。 しかしそれらの街道は近代化とともに大半はなくなるか、道幅が広げたりして、以前の街路樹、生垣や塀など建物を囲む歴史的な環境を眼にすることはむつかしい。 江戸時代には東海道をはじめとする五街道の一里毎に塚を設け、道標の代わりとして榎が植えられていた。 榎が選ばれた理由として、遠くからの目印になるほど大きくなるとか、夏に葉の茂りが良いからという説がある。 守山市の今宿の県道わきには、中仙道の一里塚のなごりである榎が史跡に指定されて残っている。 京都の四条大宮の近くにある武信神社には第二次大戦中に航空標識とされたくらい大きな、樹齢数百年、幹回り4.7m、高さ40mの榎があったそうである。 そのあとに植えられたのか、現在は幹回り4mくらいの榎が2本あり、天然記念物に指定されている。 最初は平安時代平重盛が宮島の厳島神社から苗木を移したと伝えられている。 この榎は何代目なのだろうか。 京都市の幹線道路には30数種類の多様な街路樹が植えられ、町並みの修景に役立っている。 二条城の周辺には松、広い通りは欅とか、道路の性格や環境を考慮した樹木の選択がされている。 古くからある道路には、イチョウやプラタナスなどが植えられ、新しい道路にはアメリカ花水木やモミジバフウなどが植えられていて、時代の好みが反映されていて興味深い。 京都市の街路樹は、日本の他の都市に比べて種類が多く多彩である。 ヨーロッパの都市は、プラタナス、ボダイジュ、マロニエなど種類は限定されているが、剪定されずに大木が伸びやかに枝を広げているので美しい。 お隣の韓国は、なぜかポプラやヤマナラシなどヤナギ科に限定されていて、それ以外の樹種をほとんど見かけない。 それらの樹種は剪定には不向きなのに、剪定されたところもあり、本来の樹形がそこなわれ哀れな姿になっているところがあった。 日本の街路樹ではポプラがあるが、剪定されているのを見かけたことはない。 しかしながらほとんどの街路樹は剪定に強い樹種ではあるが、絶えず剪定されコブだらけで、無残な樹形が多い。 しかし例外がある、加茂川の右岸の加茂街道である。 ニレ科の榎、欅、椋、秋ニレの大木に松や桜が混じり鬱蒼と生い茂っている。 榎が一番多く、次いで欅が多い。 幹回り4mほどのものも少なくない。 大半は自然に生えてきたものであろう。 加茂川の河川敷側は特に巨木が多い。 樹種が多いこと、剪定されていないこと、街道両側の環境の違いによる樹形の多様性など、一般のシンメトリーの並木道にはない魅力が溢れている。 これは京都の街道の原風景かもしれない。 この街道は、少なくとも幹回り4mに成長する間大きな変化がなかったことになる。 魅力的な天然記念物級の巨木が立ち並ぶ街道の風景は、歴史的にも文化的にも貴重な存在である。 榎は方言が極めて少なく、千年以上も前からエノキという国語が普及していたそうである。 古くはタタエノキという呼称だった。 エノキは冬に落葉すると大きいボール状の宿り木の緑が目立つ。 そのことからか、神の宿る木として特別に認識されていた。 そうでなければ、食用にはなるが小さな実がなるくらいで、木材としての価値のない樹が千年も前から全国共通の名前をもてるはずがない。 だからこそ、一里塚にエノキが植えられたのではないか。 エノキは木偏に夏と書くが、その歴史的なアイデンテイテイーはむしろ冬の宿り木をつける特異性にあった。 木偏に冬と書くとヒイラギだが、榎もまた夏だけでなく、冬とのつながりも強かった。 街路樹は美的な側面から選択される傾向が強いが、歴史と文化の都、京都においては歴史的、文化的価値にも留意して樹木の選定をすれば、歴史都市とし ての奥行きがさらに深くなるのではないだろうか。 榎は縄文時代の後期に、信仰とともに朝鮮から持ち込まれたという説もある。 もしかすると縄文の風景とも重なるところが、加茂街道の魅力の尽きないところではないだろうか。 (株)京都建築事務所 代表取締役専務 小林一彦
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